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#マタイ福音書20章1〜16節「ぶどう園の労働者」のたとえ [学問]

#マタイ福音書20章1〜16節「ぶどう園の労働者」のたとえ
 田川建三『イエスという男』が言うように,本来,イエスはこの話を労働者の賃金の話として語った.その現実的切実な話を,福音書記者マタイのグループは妄想的天国の話にすりかえた.1節と16節の「付加」に惑わされてはならない!
 それ以来,キリスト教説教者たちは,天国と神学に埋没し,社会経済的次元に目を向けることを拒んできた.神の意志には絶対に従うべきだ(ブルトマン)という,えせ「倫理」.「神の支配に従ったかどうかが問題なのであって,成し遂げた量が問題ではない」(八木誠一)といったたぐいの屁理屈が,あいかわらず横行している.
 働けど働けど生活がまったくらくにならない,アベノミクス下のワーキングプアの問題を直視しないで,聖書を読んだことになるのか.
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#ロマ書3章25節のピスティス(信)は,神自身の信実! [学問]

#ロマ書3章25節のピスティス(信)は,神自身の信実!

 3章25節の「ピスティスによって」を,どのように解釈すべきか?「信仰をもって受くべき」(口語訳)は,だめ.「信じる者のために」(新共同訳)も,だめ.この箇所のピスティスは,信者の「信仰」などではない.ましては「信じる者」などではない.思い切って神に視点を切り替え,ここのピスティスは,他でもなく神自身のピスティス(信実)を言っていると,知るべきであろう.
 24節の「キリスト・イエスにおけるアポリュトローシス(贖い)」も25節の「ヒラステーリオン(宥めの供え物)」も,掟拘泥主義からの解放・自由を言わんとする比喩的表現である.この解放・自由は,「信によって」である.すなわち,神自身の信実によってである.
 田川 建三『新約聖書 訳と註4』が言うように,「この「信」は神自身の信実以外を意味しない」.神自身の信実によってとは,「キリストの血において」ということであり,そういう仕方で「神のディカイオシュネー(正義)の表明」が行われた.
 この神のディカイオシュネーは,とりもなおさず神のピスティスである.神の信実=神の正義という土台・根拠から,些末な掟にとらわれない独立独歩の自由な生き方が生まれる.
 ごまかしのない日本語訳を追求するならば,田川 建三訳新約聖書を読まざるをえないであろう.
 聖書・古典講読会HP参照: https://www.cudworth1.com/?fbclid=IwAR3C-jb23_AM5Un6RKbAOdSptCoTjMhgf6974MH_HIrCHHucwN7w31U5uTg
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