So-net無料ブログ作成

#「鰯の頭も信心から」の平和的意味 [学問]

 『出エジプト記』20章1〜3節は,ヤハウェだけを神とせよという,ユダヤ教の基本的な神観を表明している.他の宗教の神々は拝んではならないということになる.ユダヤ教やキリスト教やイスラームの立場に身を置く人たちは,これを当たり前だと思うかもしれないが,多数の神々と共に生きてきた私たち日本人の多くにとっては,当たり前ではない.
 「鰯の頭も信心から」という諺は,昔,節分の夜に鰯の頭を柊の枝に刺して門口に飾っておくと,鰯の臭気が邪鬼を追い払うといわれていたことからできた言葉である.一般に「鰯の頭のようなつまらない物であっても,神棚にまつって信心すれば,有り難いと思うようになる」という意味に理解されている.しかし,これはあまり正確な理解ではない.実は,この諺には神道の立場からは深い意味が込められている.
 日本思想史研究者の石田 一良氏によると,「鰯の頭が直ちに神であるというのではなく,鰯の頭でも「神ののりしろ(=神がのり移るもの)」になる,信心を凝らして鰯の頭で神を祭ると,その鰯の頭に神が宿ってくる,そういう意味で鰯の頭を礼拝する」ということだという(『カミと日本文化──神道論序説』(ぺりかん社,1983年)160頁).つまり,鰯の頭でなくても,ネコでもイヌでもよい.しらみだらけの捨てネコに神が宿っていると信じるなら,そのネコが尊いものに見える.人間についていえば,ムスリムの中に神が宿っていると信じるなら,そのムスリムが尊いものに見える.仏教者の中に神が宿っていると信じるなら,その仏教者が尊いものに見える.無神論者の中に神が宿っていると信じるなら,その無神論者が尊いものに見える,ということである.
 この見方はガンディーの姿勢に通じる.彼はヒンズー教徒でありながら,キリスト教の神父と親友であり,ムスリムに対しても寛容だった.対立しあうムスリムとヒンドゥー教徒の間に立ち,彼は「私は,ヒンズー教徒で,ムスリムで,キリスト教徒である」と叫んだ.
 「鰯の頭も信心から」という諺は,神道の観点からは,実は,寛容と平和の精神を豊かに湛えた文言なのである.
yjimage.jpeg
yjimage-1.jpeg
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。