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#隣人愛は隣国愛 [学問]

隣人愛は隣国愛

 イエスの説いた隣人愛の教えは,ヘブライ語聖書のレビ記19章18節に基づいている。古代イスラエル人(ヘブライ人,ユダヤ人)は,隣人愛の教えをもっていた。ただし,がいしてその隣人愛の対象は同じ民族に限定されていた。異なる民族は対象外であり,しばしば敵と見なされた。
 イエスは隣人愛の対象を広げた。自分はユダヤ人でありながら,ユダヤ人が拒絶していた違う宗教や違う国の人たちを受け入れた。キリスト教は十字軍遠征や魔女裁判のような残虐行為を行った。それは犯罪であり,イエスの精神からの逸脱である。他方,キリスト教は隣人愛のともしびを消さずに今日まで保ってきた。たとえば,アッシジのフランシスコ,キング牧師,マザーテレサ。
 イエスの広い隣人愛からすると,隣人愛の対象は隣の国にも拡張されなければならない。 地理上,日本に一番近い国は,ロシア。北海道稚内市からサハリン(樺太) まで約43km。かつて北海道を二つに分断しようとしたロシア,しかし偉大な平和主義者トルストイを生んだロシアを,私たちはどのように愛すべきだろうか? 
 次に近いのは韓国。長崎県対馬市から約50km。日本と領土問題の軋轢をもつ韓国,しかし日本のアニメが大好きな韓国を,私たちはどのように愛すべきだろうか? 
 台湾(中華民国)は沖縄県の与那国島から約110km。台湾とは民間レベルの交流は盛んだが,日本政府は台湾を国として認めていない。日本が国として認めている中国と台湾の間には,根強い緊張関係がある。そして,両国とも過去の経緯から日本に対して複雑な感情を抱いている。これら両国を私たちはどのように愛すべきだろうか?
 北朝鮮と日本は相変わらず国交断絶の状態だ。『クロッシング』という映画がある。肺結核の妻に薬を手に入れるため,北朝鮮から中国に脱出する夫・父親とその家族の話だ。悲惨な結末だ。満足な医療や食料を受けられず死んでいく人たち,少しでも国家の方針に反対すると強制収容所に入れられ,むごい仕打ちを受ける人たちの苦しみの叫びが聞こえてくるようだ。
 隣国の人たちをどのように愛することができるだろうか? 少なくとも私にできることは二つある。一つは彼らアジアの同胞を理解するように努めることだ。もう一つは彼らアジア同胞のために祈ることだ。「天の神さま,北朝鮮と韓国に,台湾と中国に,ロシアにあなたの御国が来ますように。御心が行われますように」と祈ること,これが私にできる愛し方の一つではないかと思う。
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#自分の境遇に満足する [学問]


#自分の境遇に満足する
 フィリピの信徒への手紙 4章11節の「満足する」の元の言葉は,名詞形でアウタルケイアといい,哲学史上重要な概念である。通常「自足」と訳され,それを私たちは,「自分の必要を自分で満たす」であるとか,「限度を知り,現にあるもので満足する」というほどの意味で使っている。しかし,アウタルケイアの根本の意味は,「自分で自分自身を支配するような状態」である。それは,自らを自制し,他者によって支配されず自由であるということだ。そして自由(エレウテリア)とは,人生を自ら指導すること,万事にわたっての自律。人生において,思うがままに生きる能力である。
 この意味におけるアウタルケイアを徹底的に生きた人が,アレクサンドロス大王のおかかえ哲学者アリストテレスから「犬」呼ばわりされ,見下された哲学者,シノペのディオゲネス(前404頃〜前323頃)である。甕の中に住まい,頭陀袋を下げ,襤褸をまとって犬のようにアテナイの町をうろつき,教えを説いた。
 大甕の逸話は有名である。ディオゲネスが大甕のなかで日向ぼっこを楽しんでいたところ,アレクサンドロスがやってきて前に立ちはだかり,「余がアレクサンドロス大王だ。なにか余にしてもらいたいことはないか,何でも申せ」と言った。すると,ディオゲネスはこれをじろりと見上げ,「わしが犬のディオゲネスだ。おまえが前に立っているので日陰になる。どいてもたいたい」と一喝した,という。
 シノペの市民であったディオゲネスは嘘偽りに満ちた社会を激しく批判したため,一人の従者とともに国を追放された。家もなく,日々の糧を物乞いして異国の町や村をさすらい歩くなか,彼に同行していた従者も,困窮と悲惨のどん底にあるディオゲネスを見捨てて逃亡してしまった。ディオゲネスはまったく天涯孤独の身になってしまった。頼むべきは自分だけ。どうしたらいいのか? 
 面白いことに彼はネズミの生態から活路を見いだした。ネズミが寝床を求めることなく,暗闇を恐れることもなく,美味美食と思われるものを欲しがりもせず走り回っているのを見て,自分の置かれた状況を切り開ける手立てを見出すに至った。ネズミの天然自然のふるまいこそが,彼に慣習,掟,法の虚構性を教えた。人間生活から外面的なメッキを剥ぎ取るなら,そこには赤裸々な動物的自然が立ち現れてくる。「生きること」「自足すること」の最も根底にあるものは,この動物的自然なのである。
 この心構えはパウロにも共通していると思われる。12節を参照。13節も読もう。これをディオゲネス流にいえば,「他に何もないとしても,少なくとも,どんな運命に対しても心構えができている」ということになろう。
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#電気に支配される人間でいいのか [学問]

#電気に支配される人間でいいのか

 人間社会にとって一番大事なものは,電気なのか人間なのか。というのも日本を含む先進国においては,電気があたかも人間の支配者であるかのようにふるまっているからである。
 電気という漢字は,「雷の素(原料)」という意味である。雷は電気作用であるから,うまい表現ではある。もともと,電気はelectricity 等の西欧語の翻訳語であり,琥珀を意味するギリシア語のēlectron に由来する。琥珀を摩擦すると静電気が発生することを発見した故事によるもので,そこからelectricity という言葉が生まれた。19世紀の後半,人間の知恵は電気の実用化に到達した。エジソンによる電球の発明やベルによる電話の発明は,その画期的な事例である。その後,電車,自動車,テレビジョン,電気炊飯器,電気冷蔵庫,電気掃除機,パーソナル・コンピュータ等,電気に頼る便利品が作られ,日常生活の中に浸透している。
 たしかに電気関連物は便利ではあるが,電気に頼るものである以上,電気の供給が止まると,たちまち機能しなくなる。人間は電車やエレベータの中に閉じ込められ,家では真っ暗な夜や,エアコンディショナー無しの暑苦しい生活を余儀なくされる。スーパーマーケットは閉まり,コンビニエンス・ストアはインコビニエント・ストアとなる。もっと深刻なのは,原子力発電所である。電気の供給が止まり,自家発電能力さえ奪われたとき,有毒な放射性物質を大量に放出し,広範な地域にわたり,人間,家畜,自然に深刻な被害をもたらした。
 現代人は電気に依存しすぎている。人間が電気に頼る快適な生活に慣れていくにつれて,しだいに電気がのし上がり,ついには人間の支配者になってしまった。「3.11」により電気が止まると,電車が止まり,携帯電話もつながらず,人間は右往左往した。もっと深刻なことは,日本列島全体が,原発事故のため水素爆発による壊滅の危機にさらされたということである。そうなると,もう人間は電気の奴隷であり,電気は人間の独裁者としか言いようがない。
 そもそも電気がなければ,文化や文明は成り立たないのであろうか? たとえば,人知の栄華を極めた古代ギリシャ文明。パルテノン神殿は電気無しに建造された。ソクラテスは電車に乗らず,テレビジョンや携帯電話をもたなかった。それでも,いや,それだからこそ人類最高の知者となった。彼は携帯電話などなくても,話したい人の所へみずから歩いて行き,対面の会話を楽しむことができた。
 電車が利用できない場合,歩くということはあたりまえのことだが,現代人は危機に直面してやっとその単純な真理を思い出す。むしろ,日常から,歩くことや対面の会話こそがあたりまえであり,電気への依存は最低限に抑えるというライフ・スタイルが必要ではないだろうか。私たちは,電気に支配される人間ではなく,電気を支配する人間であるべきである。

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#プルトニウム〜禁断の果実 [学問]

#プルトニウム〜禁断の果実
 『創世記』の禁断の果実の話は,昔話ではない.現代に生きる私たちに関係がある.プルトニウムは,この世で最も毒性の強い物質の一つである.体内に取り入れられるなら,プルトニウムが放射するα線によって恐ろしい内部被爆がおこる.地球ができた当初,大地はプルトニウムやその他の放射性物質でいっぱいだった.その後,気が遠くなるような年月の経過のなかで,プルトニウムは地球上から姿を隠した.言い換えると,神は人類が誕生し,生存する環境を整えた.神は人類がプルトニウムを取って食べ,破滅することがないように,それを禁断の果実と定めた.人類は誕生以来何10万年にもわたり,プルトニウムの存在を知らず,したがって,それに手を出すことをしなかった.
 しかしながら,それなりの科学知識をたくわえた人間たちは,近年になって,プルトニウムの存在を探し当てた.そして,1941年,その一族のプルトニウム239が核分裂をきわめて起こしやすい物質であることを知った.当時の状況には,戦争がすでに暗い影を落としていた.良識のある科学者たちは,この核物質が大量殺人爆弾製造につながりうることを認識していたので,プルトニウムの存在を長い間秘密にしてきた.しかし,科学者とよばれる人たちのなかには悪魔の誘惑に屈し,この禁断の果実に手を伸ばし,そこに潜む巨大なエネルギーを戦争へと解放しようとする者もいた.
 その時から文明のありようははなはだしい悪の方向に変化をとげ始めた.その結果が,ナガサキに投下されたプルトニウム原爆による,空前の大量殺戮であった.プルトニウムが「地獄の王の元素」とよばれるゆえんだ.プルトニウムという語は,「死者の国の王」を意味するプルートというラテン語に由来する.
 その後,原爆を使用した者たちは,何を考えてか,原子力の平和利用という美辞麗句のもと,原子力発電を開発した.この人たちの手にかかれば,「悪魔の元素」はたちまち「人類の夢をかなえる元素」に変化するかのようである.そこには,プルトニウムという禁断の果実を自由自在に制御し,支配できるという楽観がある.楽観などというのはまやかしだ.はっきりいえば,最大の無知であり最大の傲慢だ.それは必然的に悲惨な結果をもたらした.スリーマイル島,チェルノブイリ,フクシマの原発事故が顕著な例である. 
 そもそもプルトニウムは人類の手に負えるのか負えないのかを,抜本的に検討しなければならない.もし手に負えないのであれば,人間はいさぎよく手を引き,神の手にお返しすべきではないだろうか?
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#イエスと親鸞 [学問]

 「私が来たのは,正しい人を招くためではなく,罪人を招くためである」(マタイ福音書 9章13節)
 この言葉にイエスの基本姿勢が表れている.人を差別しない,困っている人を助ける,ということである.イエスは,世間の除け者や嫌われ者に優しい眼差しを注いだ.
 親鸞もそういう人だった.「善人なをもて往生をとぐ,いわんや悪人をや」という言葉がその心の広さを表している.「悪人」とは仏教語であり,仏教を信じない人という意味である.仏教がよくわからない人でも,ただ「南無(namas)阿弥陀仏」と唱えさえすれば,極楽浄土の心境を得ることができる,というありがたい教えである.
 自分の話で恐縮だが,小学1年の時,担任の教師からいじめられた.彼女は教師になりたてだった.当時,母が入院しており,身の回りが整っていなかった.潔癖な先生から見れば,私は汚い生徒だった.両親の教育方針により,小学校に入るまで遊びほうけ,文字を書くことも絵を描くことも満足にできなかった.通信簿の図工は1だった.私たちは先生から「炭鉱のカラス」と呼ばれ,さげすまれた.これを聞き及んだ生徒のお母さんたちは腹を立て,抗議した.そういうこともあって,その先生は1年で担任を下ろされた.
 2年生の時,Y先生が臨時の担任となった.図画にコンプレックスをもつ私に先生は,優しい眼差しを注いでくれた.「三上くんらしい絵だ」といってくれた.放課後に私を残し,個人的に絵の指導をしてくれた.そのうち,デパートの展覧会に出品しようということになった.テーマは「ぼくの父」.共同浴場で入浴中の父を,先生の指導の下でせっせとかいた.結果は,金賞だった.Y先生は1年間の契約が切れ,よその学校に移られたが,私にとっては,イエスさまのような人である.
 「私が来たのは,正しい人を招くためではなく,罪人を招くためである」 この精神に少しでもあずかりたい.
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#「鰯の頭も信心から」の平和的意味 [学問]

 『出エジプト記』20章1〜3節は,ヤハウェだけを神とせよという,ユダヤ教の基本的な神観を表明している.他の宗教の神々は拝んではならないということになる.ユダヤ教やキリスト教やイスラームの立場に身を置く人たちは,これを当たり前だと思うかもしれないが,多数の神々と共に生きてきた私たち日本人の多くにとっては,当たり前ではない.
 「鰯の頭も信心から」という諺は,昔,節分の夜に鰯の頭を柊の枝に刺して門口に飾っておくと,鰯の臭気が邪鬼を追い払うといわれていたことからできた言葉である.一般に「鰯の頭のようなつまらない物であっても,神棚にまつって信心すれば,有り難いと思うようになる」という意味に理解されている.しかし,これはあまり正確な理解ではない.実は,この諺には神道の立場からは深い意味が込められている.
 日本思想史研究者の石田 一良氏によると,「鰯の頭が直ちに神であるというのではなく,鰯の頭でも「神ののりしろ(=神がのり移るもの)」になる,信心を凝らして鰯の頭で神を祭ると,その鰯の頭に神が宿ってくる,そういう意味で鰯の頭を礼拝する」ということだという(『カミと日本文化──神道論序説』(ぺりかん社,1983年)160頁).つまり,鰯の頭でなくても,ネコでもイヌでもよい.しらみだらけの捨てネコに神が宿っていると信じるなら,そのネコが尊いものに見える.人間についていえば,ムスリムの中に神が宿っていると信じるなら,そのムスリムが尊いものに見える.仏教者の中に神が宿っていると信じるなら,その仏教者が尊いものに見える.無神論者の中に神が宿っていると信じるなら,その無神論者が尊いものに見える,ということである.
 この見方はガンディーの姿勢に通じる.彼はヒンズー教徒でありながら,キリスト教の神父と親友であり,ムスリムに対しても寛容だった.対立しあうムスリムとヒンドゥー教徒の間に立ち,彼は「私は,ヒンズー教徒で,ムスリムで,キリスト教徒である」と叫んだ.
 「鰯の頭も信心から」という諺は,神道の観点からは,実は,寛容と平和の精神を豊かに湛えた文言なのである.
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#イエスと地蔵菩薩 [学問]

#イエスと地蔵菩薩
 一人息子に先立たれた母親,その底知れぬ悲しみをだれが慰めることができるか?
ルカ福音書 7章11〜12節によると,答えは,イエスという男性だということになるが,どうもピントこない.しかし,もしイエスという人は,お地蔵さんのような人だといわれるなら,少しはわかる.お地蔵さんとは,地蔵菩薩のことだ.地蔵菩薩は,あの「賽の河原」の仏教説話と関係がある.
 親に先立って亡くなった小さい子どもが,この河原で母親や父親をいとおしみ,小石を積んで塔を作ろうとするが,石を積むとすぐに鬼がきてこわしてしまう.この説話は昔から「地蔵和讃」として庶民のあいだで歌い伝えられてきた.「お母さん,お母さん」と泣き叫ぶ幼子を鬼は容赦なくいじめ続ける.この苦しみをどうしたらいいのだろう.「地蔵和讃」は次のようにいう.

 地蔵菩薩にまさるものはない.
 遥か谷間の彼方から 光り輝き尊いことに 幼子の前にお立ちくださり いわれた
 もう泣かなくてもいいよ 幼子たちよ 
 おまえたちは短いいのちで 冥土の旅にきた
 生ける者の国は冥土から遠く離れている
 わたしを冥土の父母と思って過ごし 頼りなさい
 こういって 幼子を着物の裾の中にかき入れ
 まだ歩けない幼子を手に持つ杖の柄に取りつかせ
 慈しみに満ちた胸に抱きかかえて撫でさすり
 憐れみたまう なんとありがたいことか
 子どもに先立たれて悲しければ 西に向かって手を合わし祈りなさい
 残された私のいのちが終わるときには 子どもと一緒に天国に導いてください
 地蔵菩薩さま 朝に夕に仏壇に念仏を称えなさい 南無阿弥陀仏と

 「南無」はインドの言葉のnamasに由来し,「おまかせします」という意味.
 南無妙法蓮華経でもいいし,イエス・キリストさまでもいい.

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# “人生には理由も意味もない”のか [学問]

# “人生には理由も意味もない”のか

 ヨブは,災害で10人の子どもを喪い,全身を皮膚病に冒され,妻からも見放された.絶望の中にいる彼を,三人の友人が訪れ,偉そうに説教したときの,ヨブの応答が,「自分の生が厭わしい.いつまでも生きていたくない.わたしにかまうな.わたしの日々は一息の間である」(ヨブ記 7章16節).かわいい子どもたちがもういない日々,病気の苦しみが延々と続く日々,もはや妻の支えがなくなってしまった日々,それはまさしく一息の間,空しさ,無意味であるといえる.
 この限界を超えた状況に関するかぎり,ヨブの最大の理解者は,もしかしたら神を信じる人ではなく,神を信じない人かもしれない.サマセット・モームは『サミング・アップ』の中で,神の存在と来世の可能性を信じない立場を取りあげ,次のように述べている.

 もし死がすべてを終わりにするのなら,また,もし善を望み悪を恐れる必要がなければ,何のために自分がこの世にいるのか,そうした状況でどのように身を処すべきか,しっかり考えなくてはならない.こういう質問の一つに対する答えは明らかであるが,不快なものなので大抵の人は直面するのを避ける.人生には理由などなく,人生には意味などない.これが答えである.

 「人生には理由などなく,人生には意味などない」 なるほどそうである.これは強い人の考えだ.ヒューマニズムの考えである.しかし,私はこの考えに徹することができるほど強くない.どんなに神に見放されたとしても,やはり神に希望をかけたい. 
 これに関連して,今は亡き母から聞いた話をご紹介したい.あるとき幼児の私は水疱瘡にかかった.発熱と発疹と水疱のため,私は日夜苦しみ,看病する母もとことん疲れ果てた.夜中に,全身膿まみれの私が,泣きながら「母ちゃん,おっぱい」とせがんだとき,さすがの母もひるんだ.私は何度も泣きながら「母ちゃん,おっぱい」とせがんだ.最期に母は,膿まみれの私を受け入れ,授乳したという.
 赤ちゃんがアンアンと泣いて,母親を求めるように,私は,これからどんなことがあっても,神にしがみついていくしか生きるすべをもたない.
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#慈(maitrī)と悲(karuṇā) [学問]

#慈(maitrī)と悲(karuṇā)
 互いに重荷を担う(ガラテヤ書 6章2節)とは何をすることかと考えた.映画『レ・ミゼラブル』で,市長になったジャン・バルジャンが,重い荷車の下敷きになって苦しむ男性を目の当たりにする場面がある.ジャンはなりふりかまわず荷車に直進し,それを持ち上げ,男性を助け出した.それが互いに重荷を担うということであり,「キリストの律法」,すなわちキリストの精神に基づく行動なのだと思う.
 翻って,仏教の観点からは「慈悲」という概念を思い起こす.一般に,「いつくしみ,あわれむ心.また,情け深いこと」という意味だ.「慈悲を乞う」「慈悲を垂れる」「お慈悲でございますから(カンニングを)お見逃しください」などという使い方をする.本来,「慈」と「悲」は別の言葉で,両方とも仏教用語だ.「慈」はサンスクリット語の maitrī の訳で,南方アジアの上座部仏教では,「(同胞に)利益と安楽をもたらそうと望むこと」だ.この場合,「同胞」とは生きとし生けるものすべてを含む.「悲」はサンスクリット語の karuṇā の訳で,やはり上座部仏教では,「(同胞から)不利益と苦とを除去しようと欲すること」である.漢字の「悲」は,本来,「胸が裂けるようなせつない感じのこと」だ.中国の六朝時代には,悲という漢字が哀れみという意味に使用されている.このような慈と悲の考え方は,チベット,中国,日本に伝わった大乗仏教にも継承されている.慈悲とは,要するに,苦しんでいる人をかわいそうだと思うだけではなく,その人の苦しみを取り除いて,楽にしてあげようとする必死の行動を意味する.
 韓国の東亜日報は2014年4月17日付けで,「生徒らを先に助けようとした女性乗組員が遺体で発見 旅客船沈没事故」というニュースを伝えた.乗組員のパク・ジヨンさん(23歳,女性)は,船が激しく傾いていた状況の中,生徒らが身につける救命胴衣を探しに,船室のいたるところを歩き回った.救命胴衣を確保してきたパク氏は,生徒らに次々と着せた.パク氏は,恐怖のため涙を流している生徒らに,「安心してね,私たちは皆,救助されるはずだから」と慰めた.沈没直前の状況が迫ると,パク氏は生徒らに,「早く海に飛び込みなさい」と叫んだ.海に向け脱出した生徒らは,救助された.しかし,その後,パク氏は遺体となって見つかった,という.この美談が,他の乗組員の無責任で利己的な行動を覆い隠すようなことがあってはならないが,他者のために命をささげることは,慈悲の究極であろう.
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#キリスト者と菩薩の共通点 [学問]

#キリスト者と菩薩の共通点
 キリストに見られる利他的な心(フィリピの信徒への手紙 2章4節)は,日本の仏教文化のなかで育った私には「菩薩」を思い起こさせる.観音菩薩,弥勒菩薩,文殊菩薩,普賢菩薩,日光菩薩,地蔵菩薩などがある.菩薩とは,サンスクリット語の「ボーディサットヴァ」(bōdhi sattva)が訛ったもの.ボーディ(菩提)とは悟りのことで,あらゆる欠点がなくなり,あらゆる美徳を備えた状態を意味する.サットヴァ(菩埵,サッタ)とは,勇気と自信をもち,生きとし生けるもののために悟りを得ようと励む人のことをいう.つまり,菩薩とは,生きとし生けるものの究極の利益のために悟りを得ようという,自発的で真摯な願いをもった人々のことをいう.菩薩は,智慧によって心を悟りに向け,慈悲によって生命あるものを気にかける.他者の利益のために完全な悟りを得たいというこの願いは,菩提心と呼ばれる.


 完全な悟りを得た人が,ブッダとしての釈尊である.釈尊は,最初から悟りを得ていたわけではない.悟りを得るためにすさまじい努力をした.釈尊の前世物語(ジャータカ)によると,釈尊の前世の一つは,マハーサットヴァ(偉大な菩薩)という名の王子だった.あるとき,マハーサットヴァは,林の奥で飢えた母親の虎と7匹の子どもの虎を見た.子どもたちはやせ細っており,まさに命が絶えようとしていた.やさしい心をもったマハーサットヴァは,虎たちの前に身を捧げた.しかし,虎たちは王子の大きなあわれみに感じて,とうてい彼を食べることができなかった.そこでマハーサットヴァは,乾いた竹で自分の頚を刺して,身体を高い山のうえから虎たちに投げ出した.虎たちは涙を流しながら王子の身体を食べた.釈尊は,生まれ変わってからも,努力を重ねた.何度生まれ変わっても,あきらめることなく悟りを得る努力を継続した.その結果,ついに悟りを得た.すなわち,ブッダに到達した.
 ブッダになるまえの段階が,菩薩である.いきなりブッダになることは不可能だが,だれであれ菩薩として善い生き方を積み重ねていくなら,ブッダになることができるという希望がある.
 フィリピの信徒への手紙 2章4節も,同じ方向を指さしているように思われる.私は偉大なキリストになることはできないが,キリストを模範として,一人の小さなキリストになりたいという願いをもつことはゆるされるであろう.
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